E'b vol.177

vol.177  六然訓の心がまえ


私は三十三歳のときにつぎのことばと出逢い、それ以来自分の座右の銘としています。

「自ら処すること超然、人に処すること藹然、有事斬然、無事澄然、得意澹然、失意泰

然」それぞれの意味するところは、「自分を客観的に見る。人にはなごやかに接する。

なにもないときには澄ましているが、いざことが起きれば果敢に行動する。また、状

況のよいときも悪い時も、平然とかまえておく」ということです。私は二十年近くこ

れらのことばを大切にして生きてきました。あるときは勇気を与えられ、あるときは

励まされ、あるときは襟を正される。現在私自身が、「人生は味わい深いものだ」と感

じることが出来るのは、この心がまえのおかげだと思っています。これは決して私が

そのような人物に到達したということではありません。しかし、身近な家族や、職場

の皆さんには、「松本喜久」という人間は、そういうことを大切にし、少しでも近づく

ために毎日努力しているんだろうな、ということは伝わっている。そのような自負だ

けはあるのです。

仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己を忘れ

ることである。自己を忘れるということは、すべてのものごとが自然に明らかになる

ことである。『現代訳 正法眼蔵』(誠心書房)

『正法眼蔵』は道元禅師(一二〇〇〜一二五三年)が説いた書であり、むずかしい内

容の文章ですが、意味するところは「自分を忘れることで、すべてがわかる」という

ことかもしれません。さて今回ご紹介した「六つの心がまえ」の中で、私自身があえ

て優先順位をつけて、一つを選ぶとするなら迷わず「自ら処すること超然」を選ぶで

しょう。なぜなら、自分を客観的に見るということが「自己を忘れること」に違いな

いと思うからです。自分のことはひとまず忘れて置いておき、ものごとの本質を正し

く見ることが出来るなら、諸事の判断にあやまることなく、残りの五つは自ずとつい

てくるはずです。人としてどう生きるのか「六然訓」は、これからもその大切な道標

として私を導いてくれると信じています。

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